過去の無意味な対立。無益な議論と有益な議論の違い

・過去の出来事

中学生の頃、生物を模写するという授業があった。

模写していたら、隣に座っていたA君が

「その絵、なんかいびつだね」

と言う。絵が下手だと言われたのだと思いカチンときた。

とっさに「君だって下手じゃないか!」と言い返し、その場を険悪な雰囲気にしてしまう。

彼は恐らく大した感情もなく思ったことをいっただけだろう。それを私は自分の能力を否定されたと思いキレてしまった。大したこともないような出来事だが、感情的になったせいか今でも覚えている。

議論の妥当性を相手の人格で判断することはできない。彼の絵が下手だからといって私の絵が上手いという事にはならない。

授業の課題は大して重要なものではなかった。絵の上手い下手など些細なことである。そんなことで怒った私は器の小さい人間だった。

・最近の出来事

このブログはまだ少ししか記事を書いていない。それにもかかわらずコメントをしてくださる方がいた。堂々巡りのような問答を繰り返した後、その方は考えが違うことを理由に私が愚かであるとコメントしてきた。

そのコメントを見た時、自分がけなされたことに鳥肌が立つほど驚き、不愉快に思った。だがよく考えてみると大して重要なことではない。

彼は自分の意見の方が優れているから私が愚かであると思ったのだろう。

しかしながら彼と比べて私が賢いかどうかなど、どうでもいいことだ。彼がどのような人間なのか私はよく知らない。彼より賢いからといって何かがもらえるわけでもない。愚かだからといって何かが失われるわけでもない。

彼と私は死生観に関して議論した。私は彼の考えが間違っているとは思わない。それは個人の価値観の問題であり、どちらが正しい/優れていると言えるようなものではないと思う。学校のテストのように、はっきりと正誤が決められるような問題ではない。

・無益な議論

自分の優越性を示したり、相手の意見を変えようとするのは無益な議論である。

議論で他者を打ち負かし、自分の優越性を示そうとしても徒労に終わるだけだ。言い負かしたところで反感を買うだけで何も得られないだろう。ネット上で自分がより優れていると主張したところで他の大勢の人間にとってはどうでもいいことに過ぎない。

「私は酒を飲むのは悪いことだと本で読み、本を読むのをやめた」※

誰かの考えをより良い意見の改めさせようとするのは難しく、大抵は無駄骨に終わるだろう。我々は基本的に見たいものを見て、聞きたいことだけを聞こうとする。これを確証バイアスという。我々は皆、多かれ少なかれ確証バイアスがあり、意見を変えるのは難しいことなのだ。

・有益な議論

では逆に有益な議論とはなんだろうか。

意見が対立する二人がともに自分が絶対的に正しいと確信している場合、長い時間議論しても全く意見が変わらないだろう。そんな議論に一体何の意味があるのだろうか?時間の無駄である。

己の意見をより洗練させるには自分の間違いや今までに知らなかったことに気づく必要がある。そのためには違う考えの人と議論し、自分の意見が間違っているのではないかと疑い続ける事が必要なのだと私は思う。それを冷静に行うのは難しいことだ。議論はその対象に焦点を当てることに集中すべきで語り手の人格などに話が脱線しないように注意しなければならない。

※アメリカのコメディアン、ヘニーヤングマンの言葉。「その科学があなたを変える」からの引用

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